とんびは鳶「わたしの祖先はとんび」

とんびといっても鷲鷹科の鳥ではなく、人間世界の職種で『仕事師』と呼ばれる鳶職のことです。

 

江戸時代から浅草の浅草寺から隅田川の千住大橋までの北詰の範囲を縄張りとして、多くは火消を兼ねて町内を守っていました。戦火にてほとんどの旧いものが灰となりましたが、菩提寺の石碑に刻まれている戒名の年号によりますと延宝三年(1675)が旧い方のものです。江戸時代の町火消配置を見ますと「ぬ組十番組」と示されております。尚東京府消防歴史名鑑(日本史蹟編集会)に「祖先代々鳶職を営み天王鳶頭と稱せば市内外に知らぬものなき程なり現在ぬ組の頭取を勤めし人なり」と記載されています。

 

祖先は天王さまの境内に住み、屋号を「地内」と哨し明治時代の縄張りは、金杉・竜泉寺・三ノ輪・川岸・志茂・通新・上町・河原崎などを町内としていました。

 

鳶の頭の持場は各町内の御店の旦那衆から直接頼まれた仕事をし、暮しをたてていました。御店で何かあるとすぐ頭のところに話をもってくる。そのように町内の旦那衆にかわいがられてやってきた鳶は半分堅気で半分やくざのようなもので、私の家でも戦前は若い者が3・4人は毎日いました。縄張りを作って、その町・その土地を守っていました。他町から普請などで縄張内にやって来ますと、まず最初頭の家に金品をもってネンタツ(挨拶)にやってきて許可をもらってから仕事をしたものです。御店に行って掃除や片付け等すると飯を食べさせてくれたり、小使銭をくれたりしたそうです。ですから口の悪いのが「頭は町内のアブラ虫とかドブサライ」とか陰口をたたいていたそうで、仕事師は町内の仕事を何でも引き受けていたので、みんなに相談を持ち掛けられ、何でも頼まれればやるという便利さから重宝がられていたのではないでしょうか。

 

昭和20年(1945)3月10日の大空襲で焼ける前の家は道路から一歩入ると二十畳くらいの土間があり、右側に大人位の不動明王が安置され、左側には「トビグチ」や「カケヤ」や「サスマタ」や「纒」などが立てかけてあり、あがり口には長火鉢があり、その正面の神棚には火打ち石が載せてあり、頭が出かける時にはかみさんが後ろからカチカチと火打ちを打って厄払いをして外出させてました。

 

正月には出初め式。町内のお世話になっている御店の旦那集への挨拶で、梯子乗りをして木遣を歌いながらまわったもんです。梯子乗りの稽古は天王さまの境内に梯子をうめて地上より3米ぐらいの高さにして練習しました。背亀・腹亀・シャチ・遠見・谷のぞき・肝だめし・膝八双などいろいろな芸がありみんな一生懸命にやってました。私の父も富士山の頂上で梯子乗りをやったことをいつも自慢してました。木遣の稽古は検番「芸者集の事務所」でやってました。色っぽいですね。今宵はこれまでにしておきます。

 

※2年後に南千住に新たなショピングセンターが誕生することになりました。歴史あるコツ通り商店街が存続するために、皆様の良いお知恵を拝借させていただけないでしょうか?よろしくお願いします。第 44 号

 

〔02年09月 〕南千住 一口話”  特 別 篇